私は武器と交換に結婚した《プロフェッショナル・ゼミ》
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記事:との まきこ(プロフェッショナル・ゼミ)
私はいつからこんなに感情の激しい女になったのだろう。
男女のことで修羅場になるなんて話を聞くたび、テレビの見すぎだからそういうことになるんじゃないかと思っていた。
男女関係に限らず、現実の世界では、ものごとはもっと淡々と進むものだ。そう信じていた。
ところがどうだろう。
私は部屋中の物を手当たり次第にぶちまけ、部屋の中はものが散乱して足の踏み場もなくなっていた。私の感情がそうさせた結果だ。
私は一回結婚したことがあり、一回離婚したことがある。
結婚した相手は一つ年上の韓国人だった。ヨンさまの韓流ドラマが流行り始める数年前のことだ。
元夫のパク(仮名)は韓国から来た留学生だった。学生であると同時に日本のある小さな会社の社員でもあった。
私たちはパクが通う学校で出会った。私はその学校の事務員だったのだ。
当時、パクには韓国人の彼女がいて、二人は一緒に住んでいた。彼女も同じ学校の学生だったので、私も顔は知っていた。小柄で、目が大きくて、とてもかわいい人だった。
でも、彼女がしゃべっているのを聞いたことがなかった。学生たちも、「あの娘は、彼氏以外とは誰とも話さない」と言っていた。
彼女は一人では何もできないし、どこにも行けない人らしかった。どこに行くにも彼と一緒。仕事人間のパクでも、彼女がどこかに行かなければならないときは、仕事を放り出して付き添っていた。どうやって日本に来たんだろうか。
人はある程度の年齢から、なんでも一人でできる人になるように努力するものだと思っていたけれど、彼女はそうしなくても許される人らしい。
彼女はかわいいから、自立していなくても誰かしらが助けてくれるけど、私みたいな凡人は無理だろうなあ。そんなふうに思いながら、彼ら二人を眺めていた。
この頃は、この男性と結婚するなんて、夢にも思っていなかった。
なんだか知らないが、私は人に相談を持ちかけられることが多い。みんな「相談」などと言ってはくるが、それは口実で、単に話を聞いてほしいだけなのだ。なのに、当時の私はいつも真剣にアドバイスしたり、出るはずのない解決策を考えていた。
パクも私に相談にのってもらえないかと言ってきた。
仕事優先にしてきた結果、学校の卒業も怪しくなってきた。その上、勤め先の内紛に巻き込まれ、会社を追い出されそうだというのが、彼の目下の悩みだった。
パクもみんなと同じように、ただ話を聞いてもらいたかっただけだったと思う。でも、私はいつもの生真面目さで、なんとかならないものだろうかと頭を悩ませた。
パクの本当に困っていることを要約すれば、今後も日本に居続けたいがそれが難しそうだということだ。
彼は勤めている会社を辞めて、日本で起業をしたいのだ。そのためには、学校卒業後の在留資格を得る必要がある。卒業できてもできなくても、学校は3月までだ。学校は3月末で廃業することが決まっているから、留年もできないのだ。3月以降、どうやって日本に残るかが決まっていなかった。
そんな「相談」をきっかけに、私たちは繁盛に話すようになった。
私は、自分がパクのことを好きだという自覚はなかった。なかったのに、ある日彼の話を聞いているとき、突然、私の下腹部辺りからぶわーっと出てきた。「こいつに身を捧げてみよう!」という思いが。そして、
「私と結婚しよう! そうすれば、何もかもうまくいくよ!」
という言葉が勝手に口から出てきた。
言葉は勝手に出てきたものの、「一生に一度くらい何も考えずに、何も恐れずに飛び込んでみるのもいいんじゃないか」という思いが頭の中を新幹線のテロップのように流れたことは今でも覚えている。衝動的だったのか、自覚的だったのかよくわからない。もしかしたら、私こそテレビの見すぎだったのかもしれない。
私の提案に対して、パクは一週間考えさせてくれと言ったが、最終的に私の提案にのることにした。
パクの名誉のために言っておくが、彼は彼なりに悩んだと思う。パクは自分から日本人を利用しようとしたわけではないし、そこまで悪人になれるほど大物でもなかった。
私はそんなことはどっちでもよかった。そのときは、利用されてもいいくらいの気持ちだった。
でも、パクは、偽装結婚というかたちではなく、これからいい関係性を築きたいと言ってくれた。
そして、私たちは動き出す。
パクは同棲していた彼女に別れ話をし、彼女は故郷に帰ることになった。
どうやって彼女を説得したのか、相手の反応はどうだったのかといったことをパクは話さなかったし、私もあえてきかなかったし、ききたくもなかった。
そこから籍を入れるまでの数ヶ月間、私は幸せな気持ちでいたし、希望にも満ちていた。
パクは頑張って私を好きになろうとしてくれたと思う。思いがけず始まった二人の関係を、はやく現実味を帯びたものにしようとしてくれた。「愛されている」と私が勘違いするくらいに、努力してくれた。そんなことが、小躍りしたくなるほどうれしかった。
でも、パクは起業の準備で忙しすぎた。親への挨拶以外は、結婚の準備のために二人で行動することはほぼなかったと言っていい。
私は、二人がこれから住む部屋を探し、新しい家具を買いに行った。ぜんぶ私一人でこなした。それでも、不動産屋や家具店の人に「奥さま」と言われるとうれしかったし、私も「主人は仕事が忙しくて」なんてすっかり奥さま気取りだった。まあ、奥さまには違いないのだが。
そうして新居も見つかり、無事に籍も入れ、結婚生活がスタートした。
はい、幸せ気分はここで終了。
パクはほとんど家に帰ってこない。仕事が忙しいのは本当だったと思う。彼の会社は自転車操業の最たるもので、昼も夜もなく働いていた。彼は事業を軌道に乗せるのに必死だったのだ。
会社には何人か従業員がいたので、入ってきたお金はそのまんま彼らの給料となった。社長のパクが給料をもらえるほどのお金は残らなかった。
家計は私の少ない給料でなんとかしていたが、なんとかするのは家計だけではなくなっていった。
パクの会社は、従業員に給料が払えなくなるほどの状態になり、そのために私は貯金をとりくずした。それもなくなると複数のクレジットカードで限度額までお金を借りた。それでもお金はあっという間になくなり、財布の中に150円しかない日もあった。
現代の日本でごく普通に育った私が、明日の米にも困るということを経験するとはまさか思わなかった。苦労に酔っていたわけではなかったが、それでも私の気持ちはまだ明るかった。さすがにちょっと厳しいなあとも思ったが、そのうちなんとか乗り越えられるだろうと楽観していた。
何かが狂い始めたのは、お金が原因ではなかった。
韓国では、日本よりも仲間意識が強いときく。おまけにここは、彼らにとっては異国の地だ。助け合いの精神はより強まるだろう。
従業員の中には勉強しながら働いている同郷の留学生もいたから、パクはそういう人を多少なりとも助けたかったのだろう。彼は私に黙って、うちにあった自転車を従業員の一人にあげてしまった。
私はその行為がまったく理解できなかった。うちだってぎりぎりの生活なのに! 必要なものを人にあげる余裕なんてないのに。しかも何の相談もなしにあげちゃうってどういうこと!? 身内を犠牲にして外にはいい顔をするなんて!
パクがやっと家に帰ってきたときに、私は激しい怒りをぶちまけた。
パクはあまり感情的にならないタイプだったが、このときばかりは、激しい口調でよくわからない理屈をまくしたて、頑として譲らなかった。
その頃から、パクはますます家に帰らなくなった。彼の会社と自宅の間は歩ける距離だったにもかかわらず。
忙しいのはさすがの私もわかっていたが、帰ってこないことにはやはり不満だった。
ある日、仕事の谷間か何かで、一時的に時間ができたことがあったらしい。そのときにパクはうちに帰らずに、従業員たちとディズニーランドに遊びに行っていたことを知った。彼がぽろっと言ったのだ。慰労のつもりだったらしい。それを聞いて、私の理性がブチッと切れた。
気づいたら、私は家中の物をぶちまけていた。洋服から本から置物からすべて。部屋の中は大地震の後のようだ。
パクの彼女もこれと同じことをよくするという話を、結婚する前にパクから聞いたことがあった。私はそんな激しいことをしたことがなかったので、「彼女、病んでるのかしら?」くらいに思っていたが、こうせざるを得ない彼女の気持ちがわかった気がした。
パクの何がそうさせるのかいまだにわからないが、なんだか頭がおかしくなるくらいムカつくのだ。物をぶちまけずにはいられないくらいムカつくのだ。このときの感情は、今でも言葉ではうまく説明できない。
短い結婚生活で部屋をぐちゃぐちゃにした回数は、4〜5回くらい。そんな状況でも「石の上にも三年」という言葉を信じていた私は、せめて3年頑張ろうと思っていた。
しかし、結婚しようと思ったときと同様、私はあまり考えることもなく「あー、なんか疲れたなー。もうやめようかな」といった感じで、区役所に離婚届をもらいに行った。
半年の別居を経て、合計約2年半で結婚生活は終わった。
離婚を決めた一番の理由は、経済的な問題だった。パクの会社はいつまでたっても健全になる気配はなく、このまま私個人の借金がふくらむことは避けたかった。
それから、この人とこの先何十年と夫婦をやっていくというのが想像できなかったのがもう一つの理由だ。想像できないということは、希望がないということだ。そう思った時点で、もう終わらせてもいいと思った。
結局のところ、私はパクのことをどう思っていたのかわからない。
彼に対する愛情は、さほど強くなかったと思う。いや、さほどどころか「愛していた」とは到底言えない。
じゃあ、何のために結婚したのか? しかも自分から言い出してまで。
私は結婚そのものがしたかったのだと思う。これは競争心によるものだ。私には姉が一人いるが、当時まだ独身だった。
子供の頃から勉強も運動もそつなくこなせる姉に比べて、どんくさい私が彼女に勝つには、姉より先に結婚することしかないと思っていた。
なぜそこまでして姉に勝ちたかったのか。いや、姉に勝ちたいというよりも、親に認めてほしかったのだと思う。姉に勝つことで、私にも価値があるんだよということを親に知ってほしかったのだ。
自分には価値がないと思っていた私は、まっとうな方法で結婚ができなかった。自分の持つ武器によってパクの愛情を得ようとした。日本人であるという武器、多少のお金の融通はできるといった武器を使ってだ。
「結婚しよう」とパクに言ったとき、私は「私」という人間を差し出さずに、自分の持っている武器を差し出したのだ。自分には価値がないから武器を利用するしかなかった。そうした不健全な方法しか当時は思い浮かばなかったのだ。
ここまで思い出して書き出してみて、私は今大笑いしたい気分だ。
「どんだけ自分に自信がなくて、どんだけ渇望してんだよ。それにあんた自意識過剰すぎ! 普通に生きていれば普通の愛情はもらえるのに、バカだね!」
とでも言いながら、28歳の私を思い切り笑ってやりたい。そして、その頭をぐちゃぐちゃとなでてやりたい。
私の結婚がどれだけバカバカしい過ちだったとしても、私は後悔していない。だけど、いい経験だったなどと言う気も毛頭ない。
過去の私が、パクと結婚することを選択し決意した。そのことが誤りだったとしても、なかったことにはしたくない。私が「私」のことを、おバカさんなところもひっくるめて認めなかったら、誰が認めるというのだ?
私はあれからもいろいろな武器を持とうとした。仕事ができるという武器、一人で何でもできる武器、人に何でもやってあげちゃう武器……。物々交換のように、それらの武器と引き換えに承認とか信用などといったものをもらおうとした。
だいぶ減ってきたけれど、まだ武器は持っている。でも、そろそろいいんじゃないかな。武器を持つ体力も、そろそろなくなってきたんじゃない?
武器を捨てて、身一つの「私」で生きていこう。
大丈夫。私がそばについている。
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